あすなろ文集

「2度目の入院生活を経て」

小森 町子さん

足の痛さに耐え、歩く時にもなるべく負担をかけないようにと休みながら歩くようにし、手術はなるべく一日でも遅くしたいと考えていましたが、やはり痛みには勝てませんでした。

5年前に左足の手術であすなろで入院生活を3ヶ月も送った者としては、大変忘却に思っていました。

先生に「相当痛み我慢しているね」と見抜かれてこの痛みをとるのには手術しかないと覚悟を決めました。あすなろでの入院は2度目なので 色々な事に慣れていて 精神的にはとっても楽でした。 5年振りの入院でしたが、スタッフの方々はほとんど変わっていなかったので更に安心しました。

5年前と比べて一番驚いた事は、術後の傷への毎日の消毒が無くなった事でした。ガーゼ交換が無いことによって痛みに対する恐怖の回数が減りました。 いつも想像してしまいます。消毒の時にガーゼが傷口に食い込んでなかなか取れなくて痛いのではとか消毒の薬がしみて飛び上がる程の痛さになるのではとか、 術後は”痛い“と言う事で頭が一杯になってしまうのです。今回の入院ではこんな心配が全然なく医療の進歩に感謝しています。

ただ抜糸は変わらずありますのでその事に関しては前回と同じ想像が働きました。と言うのは、抜糸する時に糸がなかなか抜けなくて痛みが増したらどう しようと想像してしまうのです。抜糸の時が一番時間を長く感じます。きっと時間的には1~2分だと思うのですが、私にとっては冷汗ものです。自分の傷口に はどの位のピンが刺さっていて、あと何本位で終わるのかとっても不安な気持ちでいました。前回も今回もその時の私の気持ちが通じているのか 必ず看護師さ んが「もう終わりですよ」と一言明るい声で言葉をかけてくれました。本当にこの一言が魔法の力です。いつ終わるのか 痛さはやってくるのかと不安な気持ち でいるのがもう少しで終わると思えば あと少し我慢すればいいと気がぬけます。この時の事は今回も前回もはっきり覚えています。色々な場面でのスタッフの 方々の言葉は 患者にとって 精神的な支えです。又その言葉によって勇気付けられます。これからもスタッフの方々の言葉の魔力を信じて、私たち患者の不安 をとり除いて欲しいと願っています。

色々な行事も盛りだくさんで入院生活が退屈にならないように考えて下さっている事に感謝しています。2度の入院生活を送りましたが2度共楽しく入院生活を送ることができました。患者さん同士も仲良くなれて 本当に自由に気楽に痛みを忘れてしまう入院生活でした。

又きっと入院することがあると思いますが、今と変わらない“あすなろ整形外科”でいてほしいです。スタッフの皆様 本当にお世話になりました、 近況報告として、人工関節にしたことによって今までの痛みは何だったの?位に痛みはありません。それと運動制限も心配したほどありませんので毎日の生活も支障なく過ごしています。痛みを恐れないで早く手術した方が良かったのではと今になって思っています。

本当にありがとうございます。感謝しております。

「あすなろと私」

T.Tさん

北大病院へ通院していた大昔整形外科の先生が「あすなろ整形外科を作る」と言っていたのを聞いて「あすなろ」は「今日は痛くても、明日 は今日よりは良くなるように」、と解釈し、何と良い先生、患者に優しい先生だろう、と思いました。今日、外来に受診するまでそう思っていました。それが実 は「あすなろ」は「明日は檜になれるように努力する」と言う意味だと解りました。少しユーモラスな事だったのですね。北海道には「あすなろの樹」は無いと 聞きます。私は今日まで知りませんでした。

今回の入院について。まず、あちこちが痛くなりました。足の裏が痛くてたまらず、踵でひきずるように歩いたり、腰が痛くて歩くことが出来なくなった り、そして、今回手術をした膝が痛くなりました。 その度に痛み止めの薬をもらい、痛み止めを飲むと治るので、皆さんに“一度整形外科で診て貰いなさい” と言われても、痛さが治まれば忘れてしまうのでした。

ある日、地下鉄を歩いていたら、右膝が猛烈に痛くなり、歩くことが出来なくなりました。痛み止めも効かず、整形外科を受診する事になりました。この 付近で一番腕が良いといわれるあすなろ整形外科を受診しました。膝に水がたまっていると言われ水を五回抜いたけれど痛みは止まらず、新しい大きな機械でみ たら、右膝内側半月板変性断裂と言う事で、手術をする事になりました。昔からどこでもスイスイと歩き、正座をして長時間編み物をしていたのに、歩くのにも 不自由なのと、痛いのとで、すっかり弱気になり泣いてしまいました。

受診日、外来待合室で待って居たら、一人の男性が、“一ヶ月経ったら、急に良くなった”と言ったのを聞いて、私も一ヶ月経ったら良くなるのか・・と、すが る思いで聞いていましたが、私も一ヶ月と二週間経った頃、痛みが楽になりました。お薬は飲んでいますが、週に一度の注射で何ともなくなりました。皆さん に、“普通に歩いている”と言われ、走ることも出来るようになりました。(自然に走っていたのです)

あすなろ先生は怒ったら恐いけれど、患者に優しい先生です。
やはり「あすなろ」は今日より明日は痛みが良くなる「あすなろ」と思っていたいです。

「手術を終えて」

片山 正敏

私の決断は間違っていなかった。 今、私の人生は改めてスタートした。 大げさだが、きっと私の人生において大事な決断だったと思う。 手術は成功し、無事退院した。元の体に戻った。あすなろの皆さんありがとう。

平成19年8月。

今年の夏は晴天が続きお盆を過ぎて1週間経つというのに今日も夏日とのこと。いよいよ今日、あすなろ整形に入院する。 不安な気持ちはいなめない。

昨日は会社の同僚に別れを告げ、仕事のやり残しも無く、心残りは無い。 「しばらく酒も飲めないから、飲みだめするぞ!」との上司の誘いもさすがに素直に喜べない。 丁重に辞退した自分はどこかに手術を決めたことに後悔していたのかもしれない。

会社を出て愛飲のセブンスターに残った最後の1本を大事に取り出した。 「最後の一本か?」 1日に5~6本煙草を吸うが、入院を意識して調整していた。 「止めることになるのかな?三ヵ月後に止められずに吸っているのかな?」 火をつけて思い切り大きく吸い込み名残を惜しむ。

馬鹿な男だと思うが、今日の自分はすべてが節目をむかえ、精神的にも不安定だ。 何か今日と明日ではまったく違う人生が始まるよう思えた。

家に帰り、入院に備えての入浴を済ませた後、食卓についた。 大好きな酒もしばらく飲めなくなる。 「手術前だからおなかの中をアルコール消毒しないと・・」と言うと 「くだらない事言わないで」と妻が一喝する。 妻も私の入院に対して落ち着かない一日を過ごしたようだ。娘は押し黙ったまま私を見た。まるで、最後の晩餐のようだ。

私は運が良かったと思う。
自宅のすぐ近くの整形外科が股関節の専門医で、北海道でも指折りの医師であった。
あすなろ整形外科の長谷川功院長は北大医学部を卒業した医学博士である。56歳という年齢は経験と技術で一番油が乗っているといえる。10年ほど前に大谷地に開業した。
各地で名医の評判を取った男・長谷川功、私は彼に任せることにした。

昨年の11月初雪の降るころだったろうか?右足の太腿付け根に痛みを感じた。 そのころは仕事が非常に忙しく、膏薬を貼って我慢していた。 ようやく仕事が落ち着いたころはすでに冬も終わり春が近づいていた。3月の北海道は歩道が雪解けでぐちゃぐちゃになる。 なんでもなくても、歩くのに苦労する。 私の足はどうにもならなくなっていた。 通勤でビッコを引いて歩く私の横を、背中の曲がった老婆が杖を突いて抜かしていく。 「医者に診てもらわないと・・もう我慢できない。悪性の骨の病気だったらどうしよう」

私は平成19年3月末、あすなろ整形外科を受診した。その初診で「右股関節先天性亜脱症」と診断された。 完治には手術が必要で、とりあえず痛み止め服用で様子を見ることとなった。 長谷川院長がレントゲンをみて下した言葉は私の気持ちを空虚にさせた。 「手術が必要?先天性?3ヶ月の入院?」 頭の中で院長の言葉が繰り返される。 院長は私の年齢が49歳なので、今だと人工股関節は使用せずに自骨の手術(寛臼骨回転骨きり術)が出来るが、50代半ばでは人工股関節を使用するほうが良 いと簡潔に説明した。 後でわかったが、人工股関節は手術後4~5週間の入院で退院が可能だが、脱臼しやすいので、してはいけない姿勢や動作が多くある。(あすなろのホームペー ジには写真で判りやすく説明されている。モデルはあすなろ一番のベテラン看護婦である。彼女には入院中大変お世話になった。) 対して、骨切り術は骨をわざわざ骨折させて繋ぎ合わせるという手術だから、年齢が若くないと出来ない。年を取るとやはり骨がもろくなってしまうので、なか なかつかないそうだ。 ということは49歳の私にとって、早めの決断が必要であった。

自宅に戻りインターネットであすなろ整形外科のホームページにアクセスした。 予想以上にわかりやすい説明!でも人工股関節の説明はあるが先天性亜脱症は説明が見つからない。この年になってなぜ?痛くなったのか?骨に異常が起きているのか? 手術に対する不安はとれない。

それにしても、自分は3ヶ月も会社をやすめるだろうか?生活に対する不安がよぎった。 手術から退院までのスケジュールを探したが、そこまではホームページに出ていない。 初めての受診からひと月たった。痛み止めの薬でごまかしていたのが、だんだんきつくなってきた。 薬が効かないわけではないが、薬を飲んでも完全に痛みがなくなるわけでは無いので、我慢していることに疲れてきたのである。 その痛み止めも全部服用した。私はまたあすなろに行かなければならなくなった。 「痛み止めの薬を出して貰う?」 「手術をしなければ治らない!」 しかし、決心するためには情報が少ない。 もう一度長谷川院長から手術の説明を受けて決断するきっかけが欲しかった。 季節はすでに5月になっていた。私は2度目のあすなろ受診を決心した。手術を前提に受診を決断したのだ。 その日は朝から曇りがちだった。 やっと決心して受診する気になったのに、その気持ちを押さえ込むような暗い日であった。受付をすませて待っているとしばらくして私の名が呼ばれた。 長谷川院長は「前回手術をしないと治らないといった方ですね」カルテを見ながら言った。 「前回は初診でいきなり手術と言われまして気持ちが動転しました。先生!もう一度手術について説明をお願いします。私も仕事の都合がありますので、仕事に支障が出ないよう計画した上で改めて先生に手術をお願いしたいと考えています。」 一気に返答した自分は・・・この時点である程度の決心はしていた。最後の決断をするきっかけが欲しかっただけなのだ。 長谷川院長は私の気持ちを察していたようだ。落ち着いた口調でゆっくりと説明した。 私は決心した。我慢することに利は無い。

その後、私に残された課題は仕事のことだけだった。すでに家族、特に妻は私の手術の決断を認めてくれていた。 自骨の場合は手術後9週間~11週間(40歳以上)の入院が必要だが退院後の生活に制約は特になさそうだ。 私は早めの手術がこれからの人生では得策と判断した。痛みを我慢し先送りするのは得策でない。そのためには家族や会社の協力が必要だった。

翌日、私は人事課長を尋ねた。 「ちょっと相談なのだが・・一身上のことで」その言葉に人事課長の顔に緊張が走った。長年人事課長をしていると社員の態度でどんな相談なのか気づくのであろう。 普段の私を知っているからこそ、彼は私を別室に案内した。応接の下席に座った彼は私と対峙し、言葉を一つも聞きもらさずに私を理解してくれる雰囲気は作って、聞いてくれた。私が話し終わった後、彼は言った。 「体のことを最優先に考えて下さい。会社は我慢していただいたからといって最後には何の責任も取れないのです。入院中の担当部署の引継ぎを十分に準備していただければ結構です。ただし、交代要員は出せません。」 内心、拍子抜けした。別の言葉を想像した。多少の引止めがあるかと思った。 自分がいないと・・・うぬぼれである。 とにもかくにも人事課長の了解を得たので、手順前後ではあるが上司に相談した。 上司には以前からつらい状況を話していた。 上司もおおむね了承をしてくれた。 ただ、はっきりと了承してくれたのはその日の夜のことだった。 上司は私を行きつけの店へ食事に誘ってくれた。入院のことには触れず、2時間ばかりの酒席の後、ビルを出た私は上司の歩調に合わせて歩くことは出来なかった。 そんな私を見て彼は決断したのでないか・・ 「手術してしっかり治せよ!大丈夫だよ。」 私は酒だけはめっぽう強く、その私が酔っていないのに必死に歩くのを見ての言葉だった。 「ありがとうございます。よろしくお願いします。」 自分で言ったその言葉に目頭が熱くなった。 年間業務の中で入院が可能な期間を選び調整した。5月末に社内調整が終了した。

そして私は6月初旬に3度目のあすなろを訪れた。長谷川院長にお盆明けの8月22日に入院し手術をお願いした。患者のわがままを院長は快く聞いてくれた。 最後の準備は自分の部下の協力を求めることである。2ヶ月で準備する。決して余裕がある時間ではなかった。 部下の一人一人に病状を説明し協力を求めた。業務引継ぎと入院中の指示を行った。 業務マニュアルも作り直した。最善を尽くしたかった。仕事を放り投げたといわれないように。

三度目の受診で手術を決めた後、外来担当看護士が入院前準備の説明書をくれた。書かれた物を用意するだけだったが、「T字帯」など聞きなれないものもあっ た。「あすなろ文集」も渡された。過去に手術を受けた人の体験談である。何度も読ませていただいた。生の声が一番参考になる。 私もこれから手術を受ける人に何かを残せれば良いなとこの時に思った。

すぐに季節は夏を迎え手術2週間前になった。あわただしい準備も最後の詰めを迎える中、その日は入院1週間前でもある。 血液を400ml採血するためあすなろを訪れた。入院当日(手術1週間前)にも400ml採血する。手術中に使用する血液を自己血でまかなうためだが実際に使用することは少なく、ほとんどの患者は手術終了後に採取した自己血を体に戻すことになる。 それでも手術による出血で赤血球やヘモグロビンの数値が低くなっているから自己血を戻すことにより少しでも体の負担を少なくするのに役立つ。 あすなろの外来では小柄な明るい看護士が私を迎えた。一番奥の処地室である 「手術をする前の大事な体ですから、点滴しながら採血します。そちらに横になっていただけますか?」 私は今まで入院したことも無いが、点滴を打ったことも無い。 「30分程度かかりますが大丈夫ですよ。おトイレはよろしいですか?」 赤十字の献血と違い、病院での採血は気配りが細かいと思った。採血はすぐに終わった。

昨日までのことを思い出していると妻は「先に出るからね!」と言って、一足早く家を出た。自宅からあすなろまでは3~4分である。私が入院の荷物を持てな いので大きな荷物を抱えて出て行った。「申し訳ない。留守中頼みます。苦労かけてすまない。」心の中で妻にわびながら、素直に声に出せない自分がもどかし かった。 数分後、私もあすなろに向かった。

入院初日、外来で受付したあと2階の病室に案内された。1階の待合室で待っていると、看護士が迎えに来た。あすなろでは患者一人一人に担当の看護士がつく ことになっており、退院まで面倒を見てくれる。 入院患者には病衣を貸し出しているが、ほとんどの患者が自分の服を着ている。残暑のせいか半ズボンにTシャツなどのラフな姿が多い。パジャマ姿は少ない。 その理由はリハビリが1階の外来の横なのでパジャマでは抵抗があるためだ。股関節の手術は圧倒的に女性が多い。男性はわずかである。

さて、私の担当の看護士は背が高くきりっとした美人だった。彼女の指示でもう一人の看護士が血圧を測ったり脈を取ったりしている。 もう一人の看護士は最近あすなろに入ったらしい。後から解ったのが、担当の看護士は最近結婚して退職する予定なのだそうだ。その後はもう一人のO看護士に引き継がれるようだ。まじめそうな明るい看護士で好感が持てた。入院中このO看護士に大変お世話になった。

最初に院内の説明があった。4人部屋が3室、2人部屋が4室、それと特別室で21ベッドある。トイレは車椅子対応が2箇所でその他に男女用が個々にある。車椅子用トイレは便器の位置が左右逆である。手術した足により利用しやすくなっている。 ナースセンターの横には回復室がある。毎週火曜日と木曜日の午後は手術が行われる。この日は看護士が一番忙しそうだ。朝から患者に対するケアが一番多い日だ。 治療スケジュールが渡された。このスケジュール表は勝手がわからない入院生活の指針となるので最後まで大事に保管した。 知りたかった自分の手術の治療スケジュールが記載されている。何度も目を通した。 ホームページに載せてくれればありがたい。

私が入院前に一番知りたかったのは完治するのかしないのか?というのは当然であるが、手術は痛みを伴うか?手術をした後はどんな入院生活を行うのか?退院後はどのような生活をおくれるのか?後遺症などあるのか?不安は尽きない。

入院初日にひとつの不安が解けた。 すぐに昼となり昼食の時間だ。病院食はまずいと言われていたので期待はしてなかった。しかし、以外にもおいしい。 ここの病院食は満足できる!? 給食センターではなくあすなろの栄養士が栄養に気を配り、調理師も味付けに気を配っている。出来立てをすぐに配る気持ちは看護士、助手がみんなで患者に食 事を配っていることで解った。気遣いのある病院だと初日から感じた。今後も食事は期待できると感じた。私は高血圧の持病があるので減塩食であるが不満は無 かった。

昼食後は何もすることが無く、ただただ・・午後のまどろみを満喫する。仕事もせずに幸せな身分だ。3食昼寝つきである。14時に枕もとのチャイムが鳴った。ピンポン! 「午後の検温のお時間です。患者さんはお熱を測ってお待ちください。」ピンポン! 事前に貸してくれた体温計で体温を測ったのであるが、手術前一週間の体温は手術後と比較するため覚えておくほうが良い。 体温計は電子式なので1分半の予測式である。4分以上で実測値の表示となる。1分半測ったときと4分程度測ったときで表示値が異なるので時間をもてあました私は何度も試してみた。 くだらないことだが、ピンポンの押し方が看護士により微妙に違うのに気づいた。患者は特に何もすることが無いので日常のこうしたどうでも良いことを発見することが妙に楽しい。

それでは、これからあすなろに入院する方に問題です。あすなろでは朝6時半起床、14時検温、20時面会終了となります。担当看護士よりアナウンスがあります。最初にピンポンを2回鳴らす看護士は二人います。 最後は2回鳴らす人と一回鳴らす人に分かれます。その看護士は誰と誰でしょう?回答は入院後に自分で発見してください・・

さてさて夕食まで時間をもてあました私は、病院探検を早めにしておくことにした。 2階には病室のほかにホールがあり、患者の手術が終わるのを待つ家族、見舞いに来た知人との応接、患者同士の語らいの場だ。 3階には手術室と院長室があるようだが患者は遠慮するエリアだ。 暇をもてあまして、うろうろしつつも夕食となった。夕食も期待以上の内容でおいしく食べて就寝までの時間をどのようにすごすかが課題となった。

19時過ぎだろうか?そこに一人の女性が 「お加減はいかがですか?変わりは無いですか?」ちょっと見た目には女医さん? あすなろのベテラン看護士H看護士だ。 彼女の問診は非常にきめ細かく、それに答える私はおのずと慎重になる。自骨の患者は3ヶ月と入院期間が長いので限られた空間の日常生活の中に楽しみを見つ けることも必要だ。看護士を分析するのもそのひとつだ。初めての入院生活はそんな一日から始まった。翌日以降は手術前なので誰も見舞いに来ないので読書三 昧の1週間となった。

私は二人部屋だった。もう一人の住人は寡黙な患者であった。人工股関節の手術を受けていた。術後の経過もすこぶる良いようだった。四日後には親しくなる前に退院して行き、私は二人部屋に一人で手術前の入院生活を送ることになった。

手術までの1週間は手術後の不自由な体をどのように動かせばよいか、看護士が教えてくれたとおりに練習を行う。寝返りの打ち方、車椅子の乗り方、松葉杖の使い方、トイレの仕方など最低限必要なことを練習する。私はどれも問題なく出来たので心配しなかった。

しかし、手術した後は術部の痛みが影響し体が思うように動かない。 かなり苦労した。体を動かすと術部が痛む。 看護士の言うことはよく聞いておくべきだった。いや、聞くには聞いたがこれほど自分の体が思うように動かせないとは想像しなかった。後悔先に立たず。

そんなわけで1週間がなんとなく過ぎて、いよいよ明日が手術となった。 手術前日に私の部屋に新しい患者が入院した。その人は私が住むマンションの元管理人D氏でごく近しい人だった。D氏は3年前に管理人を退職し近所に住んでいた。 話し相手が出来たことで不安な気持ちをやわらげさせてくれた。ひさしぶりの会話は弾んだ。D氏は股関節の手術ではなく、ちょっとした手術で2~3日の入院ですむそうだ。

手術前日は眠れない人も多く、看護士さんから眠剤が渡される。 私は睡眠薬が嫌いだ!なんとなく!理由は無い。でもだまって飲んだ、明日のために! そして、熟睡し朝を迎えた。

手術当日は朝食抜きで水分も11時までに制限された。朝から点滴やら注射やらあわただしく時間が過ぎた。 隣のD氏も落ち着かないようだが、こういうときに近しい人が居たので落ち着くことが出来た。 9時過ぎに一般病室から回復室へ移動した。手術中に排泄物がもれないように浣腸もされた。ちょっと抵抗を感じたが仕方が無い。 用意したT字帯は手術室で看護士がつけてくれるそうであるが、なんとなく恥ずかしい。 終わってみれば麻酔後の処置で私は何も記憶が無かった。

手術は13時からの予定だったが12時45分には回復室から3階の手術室へ向った。 「がんばってね」看護士が声をかけてくれた。 ベッドに寝たまま運ばれるのであるが、テレビの1シーンを想像した。しかも主役は私である。 エレベータが3階に着くとベッドからストレッチャーに乗り換え、その後すぐに手術台に移動した。手術台に乗るとすぐに麻酔されたので記憶はここで途切れた。目の前に何かが揺らめいて若干の何かのにおいを嗅いだようだ。なんとなく・・。 記憶が途切れた。

私は19時に2階の回復室で娘の顔を見た時から記憶が戻る。本当はその3時間前に手術は終わり、回復室に戻っていたそうだ。看護士の呼びかけに返事していたようだが私は覚えてない。 妻は16時から居たのに、19時に娘の声で気がついた。(妻には悪いことをしたが勘弁して欲しい。)

手術した日の夜は高熱と痛みにうなされて朝を迎えた。自分の体がどのような状態かを分析する余裕は無く、数時間毎に痛み止めの注射をお願いし、熱を下げる ために座薬も使った。当直のB看護士は私とD氏の看護で大変だったと思う。色々の職業があるが看護士という職業は大変だと思う。感謝!

翌朝、当直のB看護士からH看護士に替わり彼女が用意してくれた暖かいタオルで顔を拭くとさっぱりした。ベッドの上で歯を磨いた。朝食は術後食でお粥だった。一日ぶりの食事だが熱と痛みで食欲が無い。それでも食事は完食!意外と食べることが出来た。

私の体には色々な器具がついていた。左腕には点滴のため針が刺され数時間毎に化膿止めの薬が注入される。術部には機械による冷却パッドがあてがわれてい る。背中にも痛み止めの薬を注入する針が刺さっている。血抜きのパイプにおしっこのパイプとどこまで自由が利くのかよくわからず、体を動かすことに抵抗が あった。

これから同じ手術をされる方に申し上げる。手術そのものの痛みとか恐怖心は一切気にしなくても良い。大切なのは手術後にどのようなリハビリをしていくかと いうことだ。そのリハビリも看護士の指示に従っていればよいので難しく無い。人工股関節の手術は術後の痛みが軽いようだ。翌日ほとんどの方が歩行しており うらやましい限りだ。 私は自骨の手術なので術後は高熱と痛みに悩み、歩けるようになったのはずいぶん後だ。

三日目を過ぎると徐々に楽になった。熱も37度台になった。回復室から一般病室へ移った。病室は手術前の部屋と異なり道路側の二人部屋に私だけだった。看 護士は私が一日にどの位水分を補給したかチェックしている。おしっこの量もあわせてチェックしている。熱のせいで自然とのどが渇き、ひっきりなしに水を飲 んでいたように思う。

手術後1週間は特殊な空気圧の機械でマッサージをしてくれる。足全体を一定のリズムで空気圧を利用してマッサージするのだがとにかく気落ちが良い。私はその時間を「癒しの時間」と呼んでいた。

同じ日に手術したD氏が退院した。 「大変そうだね。がんばってください」うれしそうだった。

妻が毎日病院に来てくれる。家が近いので私は恵まれていた。私は妻にビタミンCがたっぷり入ったアイソトニック飲料を毎日買ってきてもらった。水分の補給 だけでなくビタミンCが体力回復に役立つと考えた。東京で働く長女から「リポビタンD」が届いた。家族みんなが応援してくれる。

手術後の1週間は看護士が様子を見に来て「体の向きを変えますか?」と気遣ってくれる。一人では体の向きを変えることも出来ないのだ。両足の間に大きな枕を挟んで、足が動かないようにしながら体を回転させる。 手術した傷口が傷む。予想以上に難しい。手術前は問題なく出来たのに。 それでも、回復してくると自分で体を動かすことが出来るようになる。 寝返りをうったり、車椅子に乗る際は看護士がうまく出来るか確認するので必ず呼ぶよう言われる。 「看護婦が来るまで一人で起き上がったらだめだと言ったでしょう!」 私は担当看護士が忙しそうなので出来るところまで自分でおこなってから呼んだが、看護士は担当の患者にもしものことがあればまずいので、ずいぶん注意された。 術後は体を動かすことに細心の注意が必要なのだ。再認識した。

手術後4日目に血抜きのチューブが外された。目安は出血量が1日に100cc以下だそうだ。チューブをとった後は術部全体を大きくラップする。食品ラップに粘着力があり肌に貼るイメージだ。 ラップしたら翌日から一日おきにシャワー浴が可能となる。私は5日ぶりのシャワーになるので喜んでいたのだが事件が起こった。 思えば手術後、大便が出ていない。 食べていないから出ようが無い。看護士に聞くとほとんどの人は手術後3~4日出ないようだ。

私は火曜日に手術して土曜日に血抜きのチューブを取り、日曜日にシャワー浴が出来る日にようやく大便をもよおした。 私は熱があったので小便の管はつけていた。(熱を下げるためには水分の補給が必要で、その分小便が多くなる。術後は車椅子で乗り降りしないとトイレにいけないので体の負担を少なくするため、小便の管はつけていた。) そろそろ外してもよい時期だったので、術後初めてトイレで、ベッドから車椅子に乗ってトイレで小便の管をT看護士に取ってもらい大便をした。 ここで事件がおきた。 5日もしていないと大便はかなり硬い。 いきんでいると、胃なのか腸なのかわからないが痙攣したのだ。トイレ付属のナースコールを押そうしたところで、私もそれなりに考えた。 出したものを流していない! お尻を拭いていない。 ボタンを押すのに躊躇し、痙攣の痛みに耐えながら、とりあえず流すものは流した。ウォッシュレットでお尻を洗った。 そしてボタンを押した。やっとだった。 「どうしました?」看護士も戸惑っている。 私がトイレの中で転んだか倒れたと思ったらしい。ベテランのT看護士(本人はベテランと呼ばれるのはいやらしい)でもこんなことは始めてとのこと。 とにかく、痙攣は1~2分ごとに何度も襲ってくる。看護士は看護助手と二人で私を便座から車椅子に乗せてくれた後、ベッドに運んでくれた。

今から思えば手術からここまでが一番つらい思いをした。その翌日に一週間ぶりのシャワー浴ができた。看護助手のSさんが「15分後にお呼びしますので準備 をしておいてください」と声をかけてくれた。看護士の介助で車椅子に乗り、浴室へ向かう。脱衣所で車椅子に乗ったまま服を脱ぐのだが、傷口の痛みで時間が かかる。その間、S看護助手は浴室の椅子や床にシャワーかけて暖めておいてくれる。やさしい気遣いだ!脱ぎ終わると彼女は車椅子の私を浴室の椅子まで運ん でくれた。私は、自力で車椅子から椅子に移った。彼女は「15分後にまたきます」と言って浴室を出て行った。シャワーのお湯が心地よい。上半身を洗うのは 特に問題ないが膝から下を洗うのが難しい。特に足の裏は手が届かない。一種間ぶりなので15分では体を洗うのに時間が足りなかったが、最初なので無理しな いことにした。ラップされた傷口を恐る恐る見ると15cmから20cmの傷が2箇所あり傷口近辺は硬い。全体に痺れと痛みがあるのでその付近を触る気はし ない。

15分という短い時間のシャワー浴であるが生き返った。体を拭いて浴室で待っているとS看護助手は「よろしいですか?」と声をかけて入ってきた。きっちり15分。正確である。そんなわけで術後の初めてのシャワー浴は気分よく終わった。さっぱりした。

すでに、9月に入り暑かった夏も過ぎ去り服装は半そでから長袖に変わっていた。 今年は晴天が続き、さわやかな一日が多い。朝6時半に起床したあと、窓を開けてもらい外の空気を思い切り吸い込む。我が家は毎日起床後に全室の窓を開けて空気の入換えを行う。いつもの習慣だった。 ある朝外を見ているとちょうど長谷川院長が出勤してきた。(病院は出勤というのか判らないが・)院長は毎日8時10分過ぎに車でくることが解った。8時30分には回診だ。その他の何人かが車で通っている。 入院患者が外の景色を眺めるとき、季節の移り変わりを通りすがる人々の衣装で感じ取る。病院の中は季節感に乏しい。窓から見える自宅のマンションが遠く感じられる。

朝の回診後、当直の看護士は申し送りをする。患者一人一人について細かく話されている。立ち聞きするつもりは無いがナースセンターのカウンターにあるポッ トのお茶をとりに行くと聞こえてしまう。担当看護士以外も私のことを良く知っている。特にH看護士の申し送りは詳細だ。そんな細かい申し送りなので、すべ ての看護士が私の担当看護士と同等の知識を持っていた。 手厚い看護を受けていると感じた。

入院前にホームページで人工股関節の生活の仕方を写真で見たが、そのモデルであるB看護士のアドバイスは的確で感心した。ベッドから車椅子への移り方、寝 返りのうち方など指導してくれた。B看護士は車椅子をベッドの横にどのようにつけると乗り降りしやすいか教えてくれた。足の痺れの対策としてドーナッツ型 の空気枕を手当てしてくれた。気さくで話しかけやすい雰囲気のB看護士は患者の間でも人気があると思う。

2階の病棟には掲示板があり、病棟看護婦の写真と名前に簡単な自己紹介が書かれている。自己紹介はユニークだ。痙攣事件でお世話になったT看護士は「男前 ナース」と書かれていたが意味が解らない。実力派の魅力的な看護士である。先にも書いたが、私の担当看護士は二人居るような感じであるが、その一人のO看 護士はしっかり者の癒し系だろうか?入って間もないので写真が無いのが残念。婦長さんは外来・病棟を行ったり来たりで大変だと思う。神出鬼没と書かれてい たが、さすがにビシッと病院全体を取りまとめているのが感じられる。来年出産を迎えるK看護士は大きなお腹で仕事をしていた。気をつけて欲しい。 もうひとつ書き添えると、この掲示板には1週間の食事メニューが掲載される。 患者の楽しみである食事が事前にわかる。 ここでも細かな配慮が感じられる。

さて、術後2週間で抜糸だが、長谷川院長の朝の回診の時に1~2分で終わる。 まったく呆気ないものだ。抜糸といっても糸を抜くわけではない。 傷口は昔のように糸で縫ったりホッチキスで止めたりしていないからきれいだ。どうやって傷口がくっつくのかわからないがテープのようなものらしい。私の傷口は2箇所あったが、人工股関節の人は一箇所らしい。 個人差もあるが、術後の経過を語る中で私は太ももに痺れが続いた。 この痺れのために心配になったりして不安になった。 痛みや痺れなど感ずるままに看護士に申告するとさまざまな手当てやアドバイスをしてくれる。患者から蓄積した長年の経験は信頼できる。あまり我慢せず話したことは良かったと思っている。

あすなろではパソコンや携帯電話の使用が許可されている。会社の同僚や部下からメールが入る。手術したすぐは自分のことで精一杯だったが、痛みが和らぐと 家のことや会社のことが気にかかる。そんな時にメールが来ると妙にうれしく、返信もついつい長くなってしまう。後でわかったが、私のメールが社内メールで リレーされており、ひとりに送ったメールをみんなが読んでいた。 このころから会社の同僚が次々に見舞いに来てくれた。仕事帰りによってくれた。休日に顔を出してくれた。お菓子の差し入れやクイズの雑誌、文庫本を何冊も 持ってきてくれた。私はみんなの応援で手術が出来たと感じた。

2週間たつとリハビリが始まった。最初は出来ないこともあるがあせらないことが肝心だ。リハビリはO先生が指導してくれた。最初は単純に足を上に上げることすらうまく出来ない。不安になった。 人工股関節の人は手術の翌日から歩いている。私は2週間立っても床に足を付くことも出来ない。(足を床につけるのは40歳未満で術後4週間、40歳以上は6週間を要する) 最初のリハビリから少々無理したため筋肉痛となりリハビリをセーブする羽目になった。リハビリが始まり、入院生活にも慣れてきて一日の生活の組み立てが出来てくる。 一日おきのシャワー浴と毎日のリハビリが定番メニューだ。

そのころ、同世代の相棒が入院してきた。A氏である。年が近いせいか話があい、退屈な午後のひと時も気がまぎれる。 A氏は交通事故で怪我をして、札幌医大病院で手術を受けたそうだ。股関節の経過が良くなく知合いの整形外科医から長谷川院長を紹介されたと言った。 彼とは仕事のことや家族のこと、入院生活の不安や、将来の課題など心置きなく話をした。

彼の手術は人工股関節であった。通常2時間ぐらいで終わるのが彼は4時間以上かかった。同室の私も心配になった。 後でわかったが、事故の後の処置部で金属板が破損しており、修復したりして時間がかかったようだ。長谷川院長がきっちり処置をしてくれたのだ。 あすなろで忘れてならないのが看護助手の方だ。シャワー浴の際の介添えをしてくれる。一週間に一度のシーツ交換。病院内のこまごまとした用事を二人の女性 がこなしている。S看護助手はあすなろの「萌え!NO1だろう」。遠くから通っているらしく毎朝6時には家を出ているそうだ。なかなか出来ないことだ。本 を読むのが趣味ということだが、彼女のシーツ交換は誰に教わったのでも無いそうだが上手で感心した。O看護助手はしっかりと丁寧な仕事が感心できる。二人 には入院中大変お世話になった。

手術後6週間たつと初めて体重の三分の一を床に着くことが可能となり松葉杖の使用が許可となり、あわせて外出も許される。術後初めて床に足を着いた感覚が新鮮で手術前の股関節の痛みは感じなかった。手術をして良かったと初めて感じた時だ。
ここで私は失敗をしてしまった。 朝食前に、最近は日課となっていたホールの共同冷蔵庫に冷やしてあった野菜ジュースを取りに行った際の出来事だ。車椅子に乗ったままで冷蔵庫のジュースをとり、腰を痛めてしまった。 「軽いぎっくり腰?」車椅子に乗ったままの無理な姿勢で物を取ったため腰の筋肉を傷つけたのだ。この日の看護士はエプロンがトレードマークのもうひとりのT看護士だった。彼女の介助でゆっくりと病室に戻りベッドに戻った。 「ひとりで大丈夫?何かして欲しいことある?」と気遣ってくれる。 私は若いころに同様の経験があるが、ここ10年以上は痛めたことは無かった。 「何とか自分でやります。」そろそろと腰に響かないように移動した。その後はじっと寝ているだけである。同室のA氏は退院を間近に向かえ、昨日より外泊していた。 ギックリ腰を経験した方は解ると思うが、ちょっと体を動かすと腰は悲鳴をあげる。

車椅子に乗ってトイレに行くのに1時間もかかった。体をミリ単位で動かして、腹の筋肉に精一杯力をためて、腰がぶれないように気を使う。 翌日の回診で長谷川院長は腰のサポーターを処方してくれた。ここが整形外科でよかった。内科であればややこしい限りだ。

悪いことは重なるもので、翌日田舎から両親が初めての見舞いに来た。両親が来ることはうれしかったのだが、松葉杖で歩けるようになったと電話で話していたので、いらぬ心配をかけるのがいやだった。 父親はベッドに寝ている私を見て、手術の後の経過で動けないと勘違いした。 「調子はどうだ?」 「まーまーかな?順調だよ」とごまかした。 電話で松葉杖をついて歩けるようになったことを話していたことは忘れていたので助かった。父親は妙に納得して、動けないことに疑問も持っていない。 このことはいまだに話せないでいるが、間が悪いというのはこのことだ。 そんな腰痛も幸いに三日目には傷みが引いたので助かった。 こんな患者も過去に居なかったのではと反省する。

松葉杖をつくようになってリハビリも内容が変わってきた。 同室のA氏はすでに杖を突いて歩いていた。松葉杖を使うことは無かった。左右の足の長さが違うといって気にしていたが、こうした違和感はしばらくするとほ とんど感じなくなるらしい。彼と私でリハビリの内容は若干違うが、二人は競って運動を行うようになった。看護士からほどほどにしてくださいと注意されるこ とがしばしばあった。 私は手術した足を横ばいになって上に上げるのがなかなかうまく出来ない。リハビリのO先生(明るい感じの素敵な女性)が熱心に指導してくれるが筋肉が言う ことを聞いてくれない。毎日少しずつがんばったが20cmぐらい上に上げるのがヤットだ。

ところで、あすなろでは色々なイベントがあり、ひと月に一度特別メニューの昼食も楽しみの一つ。特別メニューは事前に内容がわからないが、この日は和風弁 当だった。煮物、焼き物、揚げ物、ご飯も凝った作りだ。デザートは栗鹿の子菓子としゃれている。デパートで買うと1200円というところか。あすなろの患 者はほとんどがひと月以上入院するので毎日の生活にイベント感を入れることで患者の心を癒してくれる。このような催しはほかにもあり、「あすなろ喫茶」も そのひとつだ。事前の宣伝ポスターは幼稚園風でちょっといただけないが、内容はGood!外来のスタッフの方が患者に紅茶やクッキーなどを振舞ってくれ る。おもてなしの気持ちを感じた。病棟看護士だけでなく、外来スタッフも入院患者をサポートしてくれる。

10月も中旬となり。窓から見た外の景色は入院時とは違い、もうすぐ冬が近いことを感じさせる。木々の葉は舞い落ち寒々しい限りだ。改めて月日が経つのを早く感じる。 私の術後の経過も順調であるということでもあった。8週間経つと二分の一の過重となる。このころになると行動もだいぶん楽になるし、外泊が可能だ。 松葉杖もうまく使えるようになったが、体重の二分の一荷重というのが難しい。O看護士が体重のかけ方をチェックしてくれた。 「今日は歩き方を見せてもらっても良いですか?」いつものように体重計を廊下にセットする。体重計にうまく歩幅をあわすことも難しいが会わない時はそのまま通り過ぎる。 「どうですか?」「ちょっと軽いですね」 「今度は?」「今度はかけすぎです!」 気にしだすとなかなかうまく出来ない。私は気にしないで普通に歩くことにしてみた。 「今のいいですよ!」 結果OK!ばっちり二分の一が出来た。 「今度もいいですよ。大丈夫ですね!」 体が勝手に荷重の許容範囲で動いてくれた。

初めての外出では病院内では体験できない道路の微妙な変化が歩行の障害になる。 その変化がリハビリの上では重要な練習だ。従って外出と外泊はうまくリハビリに取り込むことも必要だ。 大谷地近辺の道はここに住んでいる私にとって何処をどのように歩けばどの位時間がかかるかわかっている。そのかわり知人と会うことも多く、私の体を見て「どうされたんですか?」「かくかくしかじか・・」説明が疲れる。これも自業自得であるからしょうがない。

10月の最後の日曜日、A氏が退院した。 「おめでとうございます。検診の時に顔を出してください」 A氏は「また会いましょう」と言って迎えに来た家族の車にのった。 めでたい退院であるが、私にとってはさびしい気持ちが先にたつ。 また、一人だけになった。そんな私の横に若い男性が移ってきた。T君である。私と同じ自骨の手術を行った。T君の父親と私は同じ年ということもあり、息子 が手術したような気持ちだった。聴かれもしないのに術後のアドバイスをしたので彼にしてみればうるさい親父と思ったか?よき先輩と思ったか?

11月にはいると藻岩山に初雪が降り、いよいよ冬将軍の到来だ。もうすぐ10週目を迎える。リハビリも最終段階の全過重となり松葉杖から杖に変わった。そして、まもなく退院を迎える。 私はリハビリ目的で会社に何度か行った。最初、松葉杖で地下鉄に乗って会社に行くと、手術で赤血球が少なくなっているせいか酸欠状態になった。頭がボーっとする。2度3度と繰り返すことにより徐々に慣れてきた。

退院後はなるべく速やかに社会復帰したかったので入院中に練習をした。 地下鉄での朝の通勤はラッシュアワーにぶつかるので杖を用意した。退院はO看護士と相談しながら日にちを決めた。術後10週経てば患者の意思で退院が可能だが、その可否については看護士と相談するのが良いと思った。

退院前日は落ち着かない一日だった。3ヶ月も入院していると着替えの服やら細かいものが自然と増えて、入院した時よりずいぶん荷物が多い。天気予報によれ ば明日の天気は雪である。雪の中の退院は大丈夫かと心配しながら荷物を片付け終わったちょうどその時、突然妻が病院に来た。 「荷物今日持っていくから!」そっけない一言である。明日は雪なので荷物を運ぶのが大変だから取りに来た。どうやら同じ心配をしていたようだ。普通の患者 は退院の際、車で迎えに来て、荷物も車に載せる。しかし私は自宅が目の前なので荷物は手に持って帰る予定だった。

妻は衣装を入れていた三段ラックを持って病室を出た。歩道をゴロゴロ押していくのであるが、夕方なので比較的人目を気にしない。残りの荷物は洗面道具のほかわずかであった。 身の回りはすっきりしたが、ほんとに元の生活に戻れるだろうか?傷口の痛みや痺れがいつまでも残らないだろうか?会社に戻った時に居場所はあるだろうか?そんなことを考えるとなかなか寝付けない。

退院の日がきた。幸いに雪は降っていない。今日は木曜日である。 ということは手術のある日で、どの看護士も朝から急がしそうだ。 忙しそうなので退院の挨拶のタイミングがとりづらい。ベッドを動かし終わった婦長さんを見つけて挨拶した。退院は後ろ髪を引かれるようだ。同室のT君や他 の男性患者にも挨拶し、病院をでた。 家に帰るとほっとする。我が家というのはそういうものだろう。その日の夕食、早速祝杯をあげる。娘が「お酒飲んで大丈夫?」と心配顔である。妻は「自分の 体だから自分の責任だからね!」と念を押す。 「解っているよ!」と言いながら500mlの缶ビールをプッシュと開け、愛用のジョッキーに注ぐ。「うまい!」ビールの味がよくわかる。欲を言えばビン ビールにしたかったが贅沢は言えない。ご飯もうまい!あすなろの病院食もおいしかったが、妻の手料理はもっとうまい。三ヶ月の入院の間、酒を一切飲まな かったので肝臓の数値は正常に戻った。
それに何より、足が痛くない。
手術してよかった。
しかし、退院できたといっても筋肉はまだまだ不十分で歩くと体が左右に揺れる。(腿の外側の外側広筋が特に弱いようだ)

準備の甲斐あって、退院後三日目から会社に復帰できた。出社すると同僚上司から暖かい声で迎えられ自分の居場所に戻れた幸せを感じた。心配したが元の居場所に戻れた。 会社では机に座っている時間が長いことも幸いした。それでも、基礎体力が落ちているのでちょっとしたことでも以前どおりには出来ない。無理せず、時間をかけて戻すことにした。 12週目の検診は退院して翌週だったので、すぐにきた。退院して一週間しか経っていないのあすなろが懐かしい。入るとすぐにリハビリのO先生の顔が見えた。 「その節はお世話になりました。」 「お加減はいかがですか?」 「おかげさまでこんな調子です」と言いつつ歩いて見せた。杖はついているが退院時より体がぶれていない。この1週間でずいぶん良くなった。普通の生活が一番のリハビリだ。 「良くなりましたね!もうちょっとですね」 「ありがとうございます」 受付の女性も「お加減いかがですか」と声をかけてくれた。「おかげさまで順調です」と答えて診察室で待つ。

この日はレントゲンとMRIの検査を行う。長谷川院長は写真をみながら「この辺は骨がついてきましたね」 「先生、ちょっとだけしかついていないのですか?」 「49歳にしては上出来ですよ」 残念ながら骨はまだまだ完全にはついてなかった。 少しがっかりしながらも退院した時より体の動きは良くなっているのも事実であせらないことにした。その足で2階の病室のT君を訪ねた。「こんにちは!調子どう?」 「今日は検診ですか?順調ですよ!」 とりとめも無い話をしていたら1時間がすぐに過ぎた。もうすぐ昼食だ。長居は迷惑と思い退散した。

生活は順調で14週目の検診もすぐに来た。 すでに12月である。今日はレントゲンのみの検診だ。 長谷川院長は「骨がかなりついてきましたね。非常にいいですね。次回の検診は年末でいいですよ」との診断だ。次の検診は通常は16週目なのだが、年末とい うことは17週目にくれば良い。 レントゲンの写真で手術した足の骨が若干黒ずんで見える。長谷川院長によると手術の影響で骨が萎縮しているそうだ。運動により骨が丈夫になれば戻るという ことだ。 歩く際の体の横揺れもかなり少なくなった。杖が無くても歩けるのだが雪道で転ぶのが怖い。 家でのリハビリは入院中と違い思うようには出来ない。長谷川院長は仕事中にリハビリの運動をしてはどうかと言うがさすがに人の目が気になる。私は朝の歯磨 きの時、洗面台に手をついて足を横に上げる運動をすることにした。また、食事前に軽く運動することにした。寝る前に布団の上でした。 おかげで課題の外側広筋もだいぶ戻ったようで体のゆれが少なくなった。 会社でも事務所の中では杖をつくのを止めた。最近では杖を置き忘れて探す時間がもったいない。 それほど普通に歩けるようになった。

あすなろの検診はその後、ひと月後、6ケ月後、1年後と続くのであるが・・・。

あすなろでは看護士の方に非常にお世話になりました。

みなさん股関節手術のプロフェッショナルとして十分に信頼できる方ばかりでした。ほんとにありがとうございました。

「この感激を忘れないうちに」

N.Oさん

平成17年10月絶対に壊れる事がないと信じていました右股関節が、あまりの無鉄砲さに突然のように痛くて歩けなくなりました。

19年前、北大病院で長谷川先生に初診でお目にかかりましして、ニッコリと大丈夫ですよ、といってくださった先生に勇気をいただき、北大病院で、この先生にお願いをしようと心を決め、右股関節の手術を受けました。

当時は北大病院で一ヶ月、登別でリハビリを三ヶ月と計四ヶ月の入院生活を送り、お陰様で19年間何不自由なく、鳥取の砂丘を登り、四国の金毘羅さんの階段をのぼり、手術前の不自由さを思いますと、夢のような毎日でした。

十年前には左股関節も手術の時期を迎え、手術はどうしても長谷川先生にしていただきたいと尋ねますうち、私の地元の病院へ来ていらっしゃることを知り、宙 に飛び上がる思いで、すぐに伺い、入院と手術日を決めて帰り、お陰様で両股関節を入れていただき、また何不自由のない19年間でした。 猫の額ほどですが畑を作り、長靴を履き、スコップを持ち、このように出来ました19年間を有り難く思っております。

昨年、あまりの無鉄砲なやり方に突然痛くて歩くことも出来なくなり、ニコッと勇気を下さる長谷川先生にお願いをしたく、あすなろ整形に伺いました。左の足からは10年、また先生の笑顔にお目にかかることが出来ました。

この度は手術のため、不安がいっぱいで、また昔のように戻りますでしょうか、とお尋ねしますと、先生は「この病院はリハビリもゆっくりと出来て治すのにい いですよ」と仰ってくださいましたが、入院の長いのには1回目の4ヶ月で懲りていましたので、なるべく早く退院をしたいとお願いをして、5週でということ で、5週でしたらすぐ退院が出来る、と先生に手術をしていただける日を楽しみに入院いたしました。

入院当日、レントゲンを見ながら、「やはり、ちゃんとした手術をしなくてはいけないので二ヶ月だね。」と言われ、そこで観念はしましたが、5週ならあっという間と思ってきました私にはショックでした。 でもお陰様で手術の結果も順調で、人骨を入れる手術でしたので、二ヶ月と25日の入院を終え、足の差には1.5cmの下敷きを作っていただき退院することが出来ました。

家へ帰ってからは以前にも増して家事をすることも出来、先日は退院から21日目、温泉へ行く機会があり、退院後初めて電車に乗り、ちょっと遠出をしてみま した。杖は忘れてもと思い、持たずに電車の長いホームを歩き、「えっ、どうでしょう」元通りです。元以上かもしれません。何の不安も不自由もなく、改めま して先生に感謝、感謝を繰り返しながらホームを歩き、この感激を書いて伝えずにはいられなくなりました。

ホテルに着いてからも、姉にも「元より断然いいわよ。手術していることを聞かなければわからないわよ。」と言ってもらえ、改めまして長谷川先生の技術の素晴しさとリハビリに力を入れておられる病院の方針に、やはりこの病院を選択しましたことを満足に思っております。

今では足の力もつき、家の中では脚長差も感じなくなり、家の中は中敷なしで行動しております。

最後に、長谷川先生に最善の手術を施していただけましたことへの感謝と、看護師様方にはお世話をお掛けいたしました事への感謝の気持ちでいっぱいです。
事務の方にもお世話になりました。

本当にありがとうございました。

「はい。大丈夫です。」

本間 敏子さん

レントゲンを見て、先生は即座に「手術をしましょう。左(股関節)は末期、右は進行期です。手術はえーっと、いまなら3月23日・・・。」 「えーっ、手術ですか。えーっ、大事にしたら一生持つって言われていたのですけれど・・・」とは言ってみたものの、夜中に痛みで目が覚めるほどになっていたことと、健常者のレントゲンとを見比べてみると、手術をしない、という選択肢はなかった。

生まれて初めての入院、生まれて初めての手術。不思議と不安はなかった。それほどまでに、この痛みから解放されるのだという気持ちが、何の不安もなく手術 を迎えられたのだと思っている。妙なワクワク感さえあった。洗面所で会う、手術を終えた人たちが、「23日手術?あー、大丈夫よ。全然痛くないし、すぐこ のように歩けるようになるよ」と元気付けてくれた。

手術当日になった。何もわからないうちに終了。麻酔から覚めた第一声が「痛くないって言っていたけど、うそだ、痛い。」 痛いと言っても、今までの痛みではなく、傷口の痛みだけ。手術を経験したことのある人は、それは痛いとは言わないらしい。

4日目に車椅子に乗り、手術から2週間目には、車椅子から両足で立ち上がる日。普通は杖をつくそうだけれど、年に2人くらいはその日から杖を使わず に歩ける人がいると聞いた。同じ病室の人がそうだった。車椅子でリハビリに行って、両手を振り、歩いて病室に戻ってきた。自分のことのようにうれしかっ た。私は密かに2人目になりたかったけれど、実際には難しかった。自分の脚であって自分の脚でないような、変な感覚。どうやって歩いていたか、忘れてし まった自分がいた。頭の中で考えてからでなければ、手と足がうまく運ばなかった。

次の日も、歩き出しは考えてから足を踏み出さなければならなかった。徐々にスムーズに歩けるようになって、初めての「お散歩」。「アー、私歩いている。あの痛みがない」という実感。

今、退院して一週間。入院前のあの痛みは全然ありません。
手術をして本当によかったと思っています。

先生はじめ、病院関係者の皆様ありがとうございました。

※表題は、手術後から退院までの回診時、先生の「おはようございます。どうですか?」に対して、私が毎回答えた言葉。